人は人生を変えられない

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私が人生の中でできることは、

気まぐれな「やる気」に、いつも悩み、

ときどき感謝し、

そして、ただ楽しむだけ。

*以下、文章がクソ長いので、本当に読みたい人以外はやめとこう*

これは、私がこの旅に出る何年か前に、ふと考え始めたこと。
そして私は、この私なりの考えをもって、この旅に出ました。

実はこの旅の目的のひとつは、
この考えを世界に当てはめてみることなんです。

そして私はこの旅の中で、確信に近い手応えを感じたので、
今日のこの記事を書いているわけです。

人は人生を変えられる?

「誰だってその気になれば人生を変えられる。」

そんな売り文句を掲げた成功本、自己啓発本が、
世の中には五万とあります。

だから、人は人生を変えられるんでしょう。

それは否定しません。

ただ、厄介なのは、言葉の持つ意味の曖昧さ。
言葉というのは、そのものが意味の100%を表現できるものではありません。

なるべく100%に近い意味を表すべく、
人間側が、工夫して使うべきものが言葉です。

難しく言いすぎましたが、

要するに言葉って、捉え方によって意味が異なる、ってことです。

前述の意味でいえば、人生は変えられる。
だけど、別の意味でいえば、人生は変えられない。

私はそう思っています。
それをここに書いてみたいと思います。

「人生を変える」ってそもそも何でしょう?

例えば、まっすぐ一直線に伸びる、
人生の道筋みたいなものが予め示されていて、
それを自分の力だけで曲げてみせるってことでしょうか?

人は未来を予想できないのに?

この先まっすぐ続くかどうかも分からない道に対して、
「変える」という表現は、一体何をもってできるのでしょうか。

ただ、この言い方だと、水掛け論になりそうなので、
「変える」という表現からは一旦離れてみます。

では、自分の力だけで「人生を選択した」とか、「道を選んだ」とか、
そういう表現ではどうでしょうか。

人生というのは、ある意味、分岐路の連続。
常に選択肢をせまられる道の歩みだと思います。

何でもいいんですが、

大学に進学するか、就職するか。
このままバンドを続けるか、やめるか。
この娘と結婚するか、しないか。

何だって人生の選択です。

すごく日常的な例でいえば、

「今日の昼ごはん、どうしよう?」 そんな時。

今日はカレーにするか、ラーメンにするか、どっちにしようか。

そう考えていたとします。

そして結果として、カレーを選んだとします。

「人生を変える」ということを、
「自分の力だけで人生を選択する」ことだと仮定した場合、

あなたはこの時、自分の力だけでカレーを選択したのでしょうか。

人が何かを選択する、つまり「判断する」という行為は、
今この瞬間の、独立した意思のみで行なわれているものではない。

つまりその瞬間の(←ここ重要)自分だけでカレーを選択したのではない。

私はそう考えています。

ちょっと言い方が難しいでしょうか。

人が人生を望むように変えられるとか、
人間やれば何だってできるとか、

すなわち、人にもし無限の可能性があるとするならば、
その瞬間その瞬間、人には無限の選択肢が与えられるべきだと思うのですが、

例えば、昼ごはんを何食べるかと考えた時に、
無限の選択肢なんて出てくるはずがない。

人は無意識に選択肢をフィルタリングしているのです。

寿司だってある、メキシコ料理だってある、マクドナルドだってあるんです。
だけど、それが候補に挙がらないのはなぜでしょうか。

そりゃ気分でしょ?と言われれば、正にその通り。

その瞬間のあなたが判断を下す以前に、
あなたを取り巻く環境や状況が、まずあなたを制限しているから。

気分だとしたら、気分はそもそも選ぶことができないんだから。

その日の体調が悪ければ、油っこいものは食べたくないとか。
その日暑ければ、冷たいものが食べたいとか。

食べたいものがあっても、お金が無いから無理だとか。
食べたいものがあっても、店が遠いから面倒くさいとか。

そんな項目が本当は山ほどあって、それが毎日繰り返す思考の中で、
効率化されて、ほとんど無意識の中で省かれていく。

結果として、残ったものが例えば、今日はカレーとラーメン。

たった2つ。

いや3つだって、5つだっていいですよ。
いずれせよ、無限の選択肢には程遠い数には違いありませんから。

たった2つの選択肢を前に、人生をどう変えるというのでしょうか。

運命的にはカレーだったんだけど、今日の俺はあえてのラーメン!

そういうこと?

つーか、それもともと運命的にラーメンだったんじゃねーの?

そう言われたって、否定する根拠なんてないように思えます。

この、たった2つの選択肢があぶり出されていく背景には、
あなたのこれまでの人生経験、家庭環境、人間関係、
というか全部が関係していると思います。

例えば、小さいころに食べたラーメンがめちゃくちゃ旨かったとか。
逆に、野菜が苦手でいつも給食を残してた。
だから野菜を使った料理を食べたいとあまり思わないとか。

この、無意識に行われているフィルタリング(膨大な選択肢の削除)が、
そんな人生経験を元にして、勝手に実行されているすれば、

その経験自体を、まず(独立した意思で)選んでいる必要があるのでは。

でもそんなの無理ですよね。

まず生んでくれた親。 ここ、絶対に選べない。

そして、育った環境。

例えば生まれた国、
親の教育方針、
通った学校、
出会った友達。

どれも自分の力で選んだなんて、言えるものじゃない。

偶然(必然でもいいですが)生んでくれた親の下で、
しつけられ、怒られ、褒められ、

偶然生まれた国で、
言葉を覚え、その国の常識に順応し、

偶然出会った友達と、
言葉を交わし、分かち合い、助け合い、

結果として育まれた、あなたの性格や好き嫌いが、

あなたに何かを選択させ、

それを繰り返し、

年月が経ち、

今のあなたが、カレーとラーメンの選択を迫られている。

そして、このカレーとラーメンの二択ですら、また、
それ以前に起こった偶然の重なりから出来た、性格や好き嫌いによって、
あなたに決めさせようとしているのかもしれません。

こうなるともう、選んでいるというよりも、選ばされているに等しい。

人はその瞬間にはただ、「YES」か「NO」か、もしくは「右」か「左」かを、
言葉なり思考なりで発するだけの役目なのかもしれない。

選ぶ瞬間になって、これまでの経験や、自分の性格、
その他一切のものを断ち切って、完全にフリーの思考で判断するなんて、

土台無理な話。

だけどそれができない限り、無限の選択肢と、
そこから生まれる無限の可能性は絶対に手に入らない。

あるのはいつも有限の可能性。

だから、ラーメンが嫌いな人に、何でラーメン食わないの?って、

例えば、勉強が苦手な人に、何で勉強しないの?って言うように、
聞いたとしたなら、それは愚問ってやつです。

(その瞬間の)その人には、その選択肢は与えられていないんです。

そんなもん、食えるなら最初から食べてるよって、
そんなもん、できるなら最初から勉強しているよって、

そう相手から言われるでしょ?

努力できる人っていうのは、努力できるだけの準備、
つまり環境と状況とやる気(動機)が揃っている人です。

まるで天から降ってきたかのように、小さい頃から努力できる人もいれば、
どんだけ歳とっても、努力なんてできっこないような人もいる。

努力なんて、その人のやる気次第だよって言われればその通りなんだけど、
じゃあ、そのやる気はどうやって操作すんの?って話になるわけで。

それ、やる気操作できたら、全員スーパーマンじゃん、って話になるわけで。

でも実際、全員スーパーマンにはなってないよね?

何で?

もっと細かいこと言えば、例えやる気があったって、
成し遂げられるかどうかは別問題なのが、世の中の不公平なところ。

むちゃくちゃ雑な例を挙げさせてもらえば、

やる気30%のA子さんと、やる気90%のB子さんってのが例えば居て、
2人ともアイドルになりたかったとするでしょ。

A子さんはむちゃくちゃ美人で、B子さんはむちゃくちゃ不細工。
いやもちろん、人生見た目が全てじゃないですよ。

だけども、見た目が重要視されるような世界で、
いくらB子さんのやる気が高くたってですね、そりゃあ難しいですよ。

無理とは言わないけど、難しいのは間違いない。

やる気ってのは、もちろん高いに越したことはないんだけど、
人と同じような高さのやる気を持っていても、その人と同じ結果が出るわけじゃない。

人それぞれが持つ、目標に対してのハードルの高さが違うからです。

A子さんがアイドルになるのなんて、たぶんもうちょっと頑張ればなれちゃう。
だけどB子さんの場合、限界まで頑張ったって、なれるかどうかは分かんない。

人生の中で、やる気はあるんだけどなぁってこと、ないですか?

頑張ってるけど、成功できない、なんてのはまだいいですが、
やってみたいけど、どうも行動するには至らない、みたいなこと。

それって、自分が持つハードルを超すほどのやる気ではないってことでは。

言い換えれば、そのやる気を凌駕してしまうほど、
あなたが高いハードルを持ってしまっているのでは?

ハードルってのは、言ったら、「足かせ」って意味でもいいです。
あなたの足を引っ張る何かが、実は存在しているということです。

あなたが行動に移せないのには、何か必ず理由がある。

例えば、あなたはインターネットが好き。
家でゆっくりして、ネットでも見て、風呂でも入って、寝る。

そんな安定していて、約束された、守られた環境が、実は好き。
自分が思っている以上に好き。好きっていうか、楽。

もし自分がやりたいと思っている、ちょっとリスキーな行動と、
その安定した生活を天秤にかけて、どっちがいいかを考えた時、

そんな生活をかなぐり捨ててまで、冒険したいと思ってない。

例えば、人のやる気レベルMAXが、
「死んでも構わない」と思うことだとすれば、

あなたは「死んでもいいから成し遂げたい」なんて思えますか?

「死んでもいい」レベルのやる気を持ってるなら、
明らかに、その安定した生活は捨てているはずです。

だけど、そこまでのやる気はない。

だとしたら、行動に移せていないという結果が、つまり答えなのでは。
やっぱり、それを捨てられるほどのやる気ではない、と。

やる気5 – ハードル2 = なら、+3なので、つまりあなたは行動できる。
やる気7 – ハードル9 = なら、-2で、行動できない。

そんな感じ。
やる気の高さと行動は必ずしも比例しない。

あなた自身の持つハードルを超えていたなら、
たぶん既に相応の結果(行動)が出てる。

そういうことなんだと、私は考えているんです。

そしてそのやる気を、人は選べない。

いや、もっと適切な言葉でいえば、「動機」を人は選べない。

物事は動機が全て。

何かをしたい、と思えば、それはできる。

だけど、そういう感情は、どこからかフッと湧いてくるもので、

うぉぉぉぉーーーー!!!

とかいって、元気玉みたいに意図して集められるもんじゃないんです。

だから人は、その気まぐれな動機に人生を委ねるしかない。

いや、俺の人生は自分で決める!みたいな、
やる気に満ち溢れた人ってのは、「やってやる!」って動機を既に授かった人。

その逆に、動機が全然湧いてこない人だっている。
自分が何をやりたいのか分からない、そんな人で溢れてますよね。

そこから言えることは、何でもやればできる、なんていう理想論は、
(同じ瞬間においては)全ての人に通用することではないってこと。

何でもやればできる。それ自体は事実。

だけど、それは「やれば」の話。

もし人間の寿命に限りがないならば、
たぶん、全ての人に、1回以上は「やってやる!」って瞬間が来る。

だけど、実際にはそうじゃない。人生にはタイムリミットがある。

だから生きている間に、もし「やってやる!」と感じる瞬間が来たならば、
あなたはラッキーなんです。

有名なアリの実験の話を知っていますか?

ある学者だか教授だかが、アリの実験をした。

アリの巣に、例えば100匹の働きアリが居て、それを観察する。

見ていると、めちゃくちゃ働き者のアリが大体20%ぐらいいる。
逆にあまり働かないアリが80%ぐらいいる。

だから、働き者のアリの上位20匹だけ、巣から取り出して、
別の巣で生活させて、また観察する。

そうすると、めちゃくちゃ働き者だったはずのアリの中で、
なぜか、働く奴と、働かない奴が必ず出てくる。

何度やっても、
同じ巣の中の全員が働き者になるってことは起こりえない。

同じように、働き者のアリが大体20%、あまり働かないアリが80%。

実験の結果はそんな感じ。

(いわゆるパレートの法則や、ばらつきの法則というもの)

これってつまり、A君が働き者なのは、A君がA君だからなんじゃない、
A君が、「この環境で」働いているから、ってことに他ならない。

だって、周りの人がもしほぼ全部の仕事をやりきっちゃったら、
わざわざ自分が働く必要なんてないですからね。そりゃ、サボりますとも。

逆に周りの人が全く仕事してくれなくて、会社が全然回らない状態だったら、
望んでなくてもやるしかないでしょ。サボる暇なんてない。

その人が望むか望まないかに関わらず、
その時代や環境によって、自分の行動が強いられている。

そんなことが少なからず存在するんです。

だから、

仕事をサボっている人、
いつまで経っても努力しない人、
頑張るって言ってるだけで行動しない人、

どんな人だって、

その人はその人なりの環境の中で、何かに仕向けられ、
悩み苦しみ、それでもその人なりに考えて、生きている。

秋葉原で刃物持って暴れた人、
911のテロリスト犯、
北朝鮮の指導者、

そしてアウシュビッツ強制収容所を作ったナチス。

こういう人たちは頭がおかしい人。
そう片付けられるかもしれないけど、本当にそうなの?

だったら、頭おかしい人って、
自分の意思で、頭がおかしくなりたくて、なった人なの?

私はそうは思わない。

どんなに狂った考えや行動に見えたって、

その人は、与えられた環境と状況と動機の中で、
何かに強いられて生きるしかなかった。

その中で、自分が選び、選ばされ続けた分岐路の先に、
そういう結果があっただけなんだと。

だって、その人にとって心地よくて、平和で、安定した環境がもしあったなら、
そんな行動なんて取る必要もないでしょ。

行動があるってことは、その前に動機がある。

動機があるってことは、その裏に必ず理由になるような伏線がある。

そして、それはまるでアリの実験と同じように、
A君がA君であるかは、関係なかったりする。

私がもし、生まれた瞬間から、
毎日爆弾がいつ落ちてくるか分からないような時代や世界に居たら、

世界一周するだとか、自分の夢をかなえるだとか、
いや~やっぱ人生ってのはさぁ、とか。

そんな戯言は言えない。

そんな考えは、死ぬまで一瞬たりとも浮かんでこないかもしれない。

毎日が生死の境。

親が死に、兄弟が殺され、
それで、絶対に報復してやるって心に誓った時、

そこに日本の旅人がやってきて、
「それは良くないことだから、やめなさい。」って言ったとする。

そんなことは理解できるはずもない。
たぶん私の中でこの報復が悪になりえないから。

だけど、そんな人生は、自分が好きで選んだんじゃない。

気がついた時から、人は先の見えないレールに乗ってて、
よく分からないけど、自分なりに走ってきただけなんだ。

だからその先にある誰かの結果が、いわゆる「悪」だったとしても、
私はその人を責められないし、責めたくもない。

ここまで、私は長い期間旅行を続けてきて、

行ったことのない土地に足を踏み入れ、言葉を交わし、

色んな人の生活と、価値観と、人生のちょっとを見せてもらったけど、

人は人それぞれ与えられた人生の中で、

その人はその人なりの強いられた行動の中で、
進んだり、曲がったりしているだけで、

やっぱり自分の力だけで人生を選んだり、
何かを特別、ねじ曲げたりしているようには見えなかった。

日本を含めた、”経済的に”豊かな先進国ですら。

結局は、どんな形や結果であっても、
いつだってそれがその人の、その瞬間のベストで、MAXなんだと思う。

だから私はそれを否定したくないし、むしろ称えたい。

人生はそもそも真っ直ぐじゃない。
何もしてなくたって、横にそれたりするものだと思う。

人は、十人十色と言われるように、
人それぞれ違う性格や人生を持っている。

それゆえ、あなたと同じように見える人であっても、
あなたと同じような結果を出せないもの。

世の中には、救済の対象になるような、
経済的に貧しい人や、身体的に乏しい人がいるけれど、

もっと身近に、精神的に寂しさを持った人が沢山いる。

他人のものさしで「分かってない」とか、「努力が足りない」とか、
強者の理論をゴリ押しされて、気持ちを理解してもらえない人たちが。

他人を否定するのは簡単だけど、

自分を理解しようとしてくれる人ほど大切な人はいないと思う。
だから、自分も誰かに対してそういう人になりたいと思う。

別に傷を舐め合うとか、甘やかすとか、
そういうつもりはないのだけど、例え誰かにそう思われたって、

私はただ、誰かの気持ちを理解したい。

だからそれでいいと思っている。

実のところ、私がこのHPで最もやりたかったことは、
いい写真をUPすることでも、下ネタを書くことでもなく、

この記事を書くことだったのかもしれない。

私が「人は人生を変えられない」と言っているのは、

人生を諦めろ、という意味と、

人生に希望を持て、という意味の、

そのどちらでもない。

人生には可能性がある。

だけど、それはあなたに希望を持たせるものでも、
かといって絶望させるものでもない。

可能性は、ただ漠然と転がっているだけ。

それを人が叶えられるかどうかの確率というよりも、
世の中における、偶然が発生する確率に近い。

あなたがもし、

「俺は自分の人生を、自分自身で選んで生きている。」

そう思える人ならば、
あなたはすごくラッキーだと思う。

あなたはやる気に満ち溢れている。
他人がどうやっても手に入れられない「やる気」を、あなたは授かった。

その幸運は、何のためらいもなく、存分に享受すべきだと思う。

じゃなきゃ、あまりにも勿体ない。

人生にはタイムリミットがあるのだから。

 

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