募金は是か非か

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皆さん、夏真っ盛り35度ばりばりの日本列島各地で、いかがお過ごしでしょうか。

さて今日はちょっと募金について、ちょっと古いブログ記事を引用して。

とても褒められた表現ではないかもしれないけど、的確に真理を突いた内容だと思ってます。

フォスター・プランってのに参加したことがある。
貧しい国の子供達に教育を受けさせるための募金なんだけども、
参加するとその子供からお礼の手紙が届くんだ。

ぼくのときはネパールだったけど、ガネシュ君って七歳の子から手紙が来てさ。
最後は「ぼくが一番好きな国は日本です。
大人になったら日本で働きたいと思います」で結ばれてたよ。

ぼくはもう即効で破り捨ててガスコンロで燃やして、
それっきりぱったり寄付をしなくなった。

たいした金額じゃないんだよ、ぼくが寄付したのは。
それっぽっちの金でそんなことまでさせちゃうわけよ。
「一番好きな国は日本です」だよ?

そんなことを七歳の子供に言わせてるぼくは一体なんなんだろうって思うじゃない。
ただ生まれた国が違うってだけでさ。
一日バイトすれば稼げるくらいの金を送った程度のことでさ。

それに、何より嫌だったのは、その手紙を読んだ瞬間、
ぼくはこれをやりたくて募金をしてたんだ、って気付いちゃったんだよね。
ぼくは無償のつもりで募金をしてたけれども、
心の底ではずっとああいうものを期待してたんだ、って。

ぼくはぼくが金を恵んであげた相手の顔を見たかったんだなって。
顔を覚えて、名前を覚えて、その相手のその先の人生を知りたかったんだなって。

だから、申し訳ないけれど、援助はできないんだ。
「風俗嬢に説教する親父」という侮辱があってね。

失礼な言い方になるけれども、ぼくは君というシステムを売春婦みたいに感じていて、
ぼくは買春行為自体はやぶさかではないんだけれども、
でもぼくが君を買ったら、ぼくはきっと君に説教するようになる。

ぼくはそれだけはどうしても嫌なんだ。

Make Me Believe – 春巻たべた

 

この記事に賛同できるかどうかは、何ていうか、育ちあがりの環境とか、そういうものが大きく影響するような気がするので、賛否両論だとは思うけど、もうその辺りは多分、一生相容れない部分なんじゃないかとすら思える。

こんなに細かく掘り下げて、自分の行動を深読みしすぎちゃう人がいる裏で、Facebookで「カンボジアの子供たち、すっごく喜んでくれた☆」みたいにハシャいでる人が居るんだろうなぁと。どっちが正しいわけでもなく、単純にお互いの感覚はお互いに体感しえないというか。

ゆえに、世の中に広く認められるような結論は出ないので、じゃあ各自が好きなように行動したらいいやん。という落としどころしかない。

つまりそれは、募金を含めたボランティア行為のほとんどが、自己満足の部分を多く含んだものだということだ。

結局人生そのものがそうであるように、各々が好きなようにやってるだけで、誰かのために何かをやって、自分が満足したいわけだ。

例えばオ○ニーをして自分が気持ちよかったというのと、SEXをして自分が気持ちよかったというのでは、何が違うだろうか。

一般的には、SEXの方が上のように表現される場合が多いけども、その行動そのものは、あまり大差がないように思う。

いや、私は相手も気持ちよくさせるようにしてる、とかいう人もいるだろうが、結局、相手が気持ちよくなってるのを見て、自分が満足してるのだ。

つまり募金をして、相手が喜んでくれるのを見て嬉しいのと、AKB48のCDを買って握手権を手に入れて、自分自身が嬉しいのとでは、

傍から見ている側の心象が違うだけで、本来的に動機の質はほぼ同じだと思う。

別に私はボランティアを批判しているわけではなく、ボランティアも素晴らしいとは思う一方で、やはりオ○ニーじみた行為であるように思えてならない。

やりたい人がやるのは全く否定しないし、むしろその気概にはエールを送りたい。

ただ、わざわざそこに介入していくことが本当に良いことなのかは、私自身は、未だに結論が出せていない。だから、そこに介入しようとしない人達を非難するような風潮にも賛同できない。

募金をしないから悪いのではなく、

単純に、募金を通して満足したい人と、
募金を通さず、ダイレクトに満足したい人の、

2種類に分かれているだけじゃないんだろうか、と思う。

どちかか一方があたかも正しいように表現されたりするのには、何か違和感を感じずにはいられないのです。

 

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