コーダホテルとサーメル氏

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ダハブからヌエバの港まで行って、そこからフェリーでアカバに行き、
下船後、すぐにアンマン行きのセルビス(乗り合いタクシー)に乗る。

そんな感じで、エジプトのダハブから
ヨルダンのアンマンまで一日で移動してきました。

アンマンでの宿は、日本人旅行者に有名なマンスール”コウダ”ホテル。

日本人旅行者の間で、恐らく世界一有名な安宿従業員サーメル氏。
そのサーメル氏がつけた”コウダ”とは、
2004年に起こったイラクでの日本人拉致・殺害事件の被害者コウダ氏の名前で、
彼がアンマンからイラクに行く前、イラク行きを止めようとしたのがサーメル氏。

結果的にイラク行きを止められず、拉致・殺害されてしまったことを、
サーメル氏は心から悔い、

彼の事を一生忘れないように。
そしてみんなにも彼の事を忘れてほしくない、という思いでこの名前をつけている。

サーメル氏の話は、インターネット上にも転がっているので、
検索すればいくつか読むことができるのですが、本当、切ないです。
私は移動中にiPodで読んでて、ちょっと泣けました。

なので、一部転載しておきます。
彼が何故ここまで旅行者に親切にしてきたのか、理由がよく分かります。

*************
サーメルについて

父が話してくれたことによると、
パレスチナにいた私の祖父がヨルダンに移ったのは1948年(第一次中東戦争)のこと。
それまではイスラエルの北部、ハイファのソパリンという小さな町に住んでいた。
(今はソパリンという名の町はなく、別の名前になっている。)

当時、私の父は7歳、祖父の職業は不明。
イスラエル軍の攻撃から逃げ、祖父らはアンマンに移った。

そのあとイスラエルが独立を宣言。

イスラエルとヨルダンの間に、国境を作ってしまい、
祖父ファミリーはパレスチナに戻ることが出来なくなってしまった。
本当はパレスチナは私の祖国なのに渡航にはビザが必要なのだ。

そのときパレスチナ、ヨルダンで親戚がいたりたまたま離れていた家族は
そのために引き離されてしまった。
私の母と母の姉がそのパターンで、1948年当時、母の姉は14歳、母は7歳。

家族、親戚がパレスチナからでるとき、
母の姉は一人アンマン行きを拒み、パレスチナに残った。
彼女はそのとき、パレスチナに好きな男性がいて、彼と一緒に残るほうを選んだのだ。

真偽は不明だが、私の祖母と母が語ったことによると、
イスラエル軍の仕打ちは本当にひどいものだったそうだ。

「本当なら傷ついても死んでもパレスチナを離れたくなかった。
でもイスラエル軍は略奪、殺人あらゆることをした。

中でもひどかったのは若い女性に対するもので、
若い女性を捕まえ裸にしてトラックに積んで、道に立たせるというもの。レイプもあった。

ムスリムの女性にとってこのような仕打ちは死ぬより辛いもの。
でも逃げることも助けることも出来なかった。布をかけてやるだけで撃たれてしまうのだ。
ここまでされるのならもう逃げるしかない。出て行くしかない。」

それから60年近く経つけれど、戦いは終わっていない。
2年前、パレスチナ自治区北部、ナプレスに住む叔母に電話をかけた。
パレスチナ訪問のビザを取るために、パレスチナ在住の人の助けが必要だったからだ。
叔母は「残念だけど手伝ってあげられない」と言った。

4年前の アルアクサ・アンティファーダ(対イスラエルのパレスチナ人の戦い)により、
4人の息子のうち、2人が死に、2人が投獄されているのだと言う
「いまの私の家族状況では、ビザのサポートとして問題があるから」叔母はそう言った。

家族の話をしよう。父と母とは遠い親戚で、同い年の幼なじみのようなものだった。
17歳のときに結婚、アンマンの郊外に小さな家を建て3年後に長男ハッサンが生まれた。
父はエレクトリック(電気器具の修理が主)として忙しく、
週の1,2度しか帰ってこれないほどだった。それでもお金はたくさん得られたので、
アンマンのダウンタウンから少し離れたところに大きな家を買った。

そこで3男、4女をもうけ、私たちはそこで暮らした。
私は8人兄弟の4番目。長男ハッサン、次男アベット、長女サウサン、
私、妹スーハ、妹ハイファ、妹タハニ、そして末の4男フィクリ。

その家で私は18年暮らしたが、その生活は必ずハッピーと言うわけではなく、
母は上の兄2人を特に可愛がっており、
姉のサウサン、2人の妹、スーハ、ハイファ、そして私のことはどうでもよかったようだ。

末の妹タハニと弟フィクリが生まれ、やはり老いてからの子供は可愛いのか、
その2人のこともとても可愛がったが、兄弟間で母から差別を受けることは辛いことだった。
母は衣服、身の回りの持ち物、食べ物などで差別をした。

普段から私と姉、2人の妹は十分な食べ物を与えられなかった。
母はとにかくお金に対する執着が強く、父がちゃんとお金を与えているにもかかわらず、
食事はごく質素で、さらに可愛がられている兄たちの食事より、
私や姉妹の食事は少なかったので木曜日と金曜日以外はひもじい思いをした。

木曜日と金曜日は決まってご馳走だった。父が帰ってくるからだ。
母は父に見えるところだけ、取り繕うようにお金を掛け、
私たちにもきれいな服を着せ、普段からそうしていたかのような振りをするのだった。

楽しいはずのラマダン明けの祭りでさえも、私にとっては辛いものだった。
父が帰ってくるのは嬉しい。
しかし、ラマダン明けの祭りの数日間はたくさんの食べ物を
それこそ食べきれないほど用意しなくてはならなかったので、
お金を使いたくない母としては相当めんどうで、いやだったらしい。

母は本当に些細なことであるときは、理由もなく私や姉妹を罵り、棒でぶった。
もちろんそれは、父のいないところでだったが。
>
私が12歳になる頃には父と母との間に言い争いが絶えなくなった。
私や姉妹は学校が大好きだった。学校にいれば友達もいるし、大好きな勉強も出来る。
なにより母に辛く当たられることもないし。父や母が言い争うのも、見ないですむ。
家に帰りたくなくて、私たちはよく家出をした。
「もう帰らないからね」という私たちを、母は止めなかった。

しかし行く当てもなく、いつも警察に保護されてしまい、
そんな私たちを迎えに来るのはいつも父の役目で、
父のいないときには兄が渋々くる、といった感じだった。

母が私たちを迎えに来たことは1度もなかった。

そんな中、母の妹が私たちのことを庇い、
たまにではあるが、家出をすれば少しの間、泊めてくれたり食べものを与えてくれた。
彼女は私たち兄弟8人を分け隔てなく、可愛がってくれた。
父や親戚はたまに、おみやげを買ってきてくれたが、
私や妹の手に渡ることはまれだったし、母は父がくれた1JDのこづかいさえも取り上げた。

ある日父は、私にと腕時計を買ってきてくれた。
私はとても嬉しかったが、父が出かけた途端、母はそれを私から取り上げてしまった。
きっと母はその時計を兄にやってしまったのだと思う。

ある日、母からの仕打ちに堪りかねた妹スーハは、
母が普段、自分たちに少ししか食べさせてくれないことや、私たちに対する暴言、
兄たちとの差別、いままでの仕打ちを手紙に綴り、父の鞄にそっと忍ばせたが、
それを見た父は「この手紙に書いてあることは本当か?」と母に見せてしまい、
さらに母の怒りを買い、母は私たちをより一層、憎むようになってしまった。

手紙について母は父に、「あなたに家にいて欲しくて言った嘘だ」とうまく言いくるめられ、
信じてもらえなかった。

私たちは父が別の仕事についてくれることを願った
「お父さんが仕事をかえて、毎日いえに帰ってきてくれたらいい。
そうしたら毎日ご飯を食べられるし、母さんも私たちをいじめない。
早く大きくなって、結婚してしまいたい。そしたらこの家を出て行ける」。

その言葉通り、
2人の妹、ハイファとスーハはエジプト人と結婚し、いまはエジプトに住んでいる
。姉サウサンはヨルダン人と結婚したものの、わずか1ヶ月で結婚生活は破たんした。
姉サウサンと妹ハイファは父が決めた男性と結婚したが、
スーハは自分で結婚相手を決めたため、父の怒りは大変なものだった(いまは許している)。
15歳で学校を卒業してから、3年間、職を転々としながら働いた。
車の修理工場、プラスチック工場、靴の修理屋・・・仕事はとてもハードで賃金は低かった。
しかし母は給料のほぼ全てを渡すよう要求し、私のところには毎月、5JDくらしか残らなかった。
交通事故で右足で怪我をしてしまって、1年間働けなかったときもある。

そんなときでさえ、母は何もしてくれなかった。
母との良い思い出はそういえば1つも思い出せない。
友達を家に連れてきて遊ぶということも、兄には許されていても、
私たちには許されていなかった。

大家族の中にありながら、私も姉も妹も孤独だった。

父との思い出は、父はとても明るく社交的で、母とは対極の人だった。
よく家にたくさんの人を招いて、パーティーをして、それは楽しかった。
忙しい中、休みの日には父は私たちを紅海やヨルダンバレーに旅行に連れて行ってくれた。

母はけっして行かなかったし、母が止めたのか兄もあまり行かなかったが、
私や妹は父と出かけるのが大好きだった。本当に楽しかった。

父はずいぶんあとになって、母が私たちにしたことを知ったらしい。
「あのとき助けてやれなくて気づいてやれなくて、すまない」。父は私たちにそう詫びた。

19歳のときにクリフホテルで働いていた知人が
「おまえもここで働かないか」と誘ってくれて、私はこのホテルで働くことにした。
給料は良くないけれど、母のいる家に帰らなくていいし、
事故で悪くしてしまった右足のせいで他の職業にはなかなか就けなかったからだ。

クリフホテルに来て4年ほど経ったころ、私は精神的に不安定になっていた。
アンマン、この大都会で、独りぼっちになった気がした。
友人も本当に心を許せるものはおらず、母の家には帰れない。父にも妹にも会えない・・・。

そんな中、ある日、私はなんの薬だか分からないが、
とにかく一気に大量にその薬をのんだ。

「薬をたくさんのんだら死ねるかもしれない・・・。」そう思ったのだ。
しかし、薬をのんでも、気分が悪くなり、
意識が朦朧とするだけでまったく死ねそうになかった(胃薬だったのかな)。

そんなことを何度か繰り返し、私は自分自身を傷つけてばかりいた。
「私が死んでも、だれも悲しみはしない・・・。」そう思っていた。

アンマンは本当に都会だ。こんなにたくさんの人がいるのに、
ここでもやっぱり私は孤独だった。そんなときが何年か続いた。

クリフホテルには、あらゆる国から旅人がやってきた。
フランス、ベルギー、アメリカ、カナダ・・・冷たい人もいたし、優しい人もいた。
もちろん旅人からしたら、アンマンなど旅の中継点でしかないだろう。

でもそんな中に私は温かい心があるのを感じた。
通り過ぎたあとには、忘れていくだけのはずのこの宿に私宛に
「元気?」「ヨルダン楽しかったよ」と葉書や手紙を寄越す旅人がいた。

礼儀正しく、優しく、明るい。
振り返ってみると私に優しい言葉を掛けてくれたり、
微笑んでくれていたのは遠い東の小さな国からの旅人たちだった。

私たちアラブ人と同じ黒い瞳を持つ日本人。

私は彼らといて”ああ家族みたいだ”と思った。
なぜだか分からないけれど、不思議と日本人の旅人とは心から打ち解けあえたのだ。
フランス人やイギリス人はここを離れるとぷっつりと連絡が途絶えてしまう。

でも日本人の多くがこの宿を離れる前に、
ノートに思い出や”ありがとう”の言葉を残してくれた(情報ノートのこと?)。

離れても忘れない、遠くても思い出す。

やっぱり私はこれは「家族のようだ」と思わずにはいられない。

私のために泣く人もいた。私のために怒る人もいた。私のために必死になる人もいた。
皆、「サーメルはどうしてそんなに優しいの」と言うけど、私にとってもそれは同じ。
>知り合って間もない私に、こんなに良くしてくれて、こんなに思ってくれるのだから。

私もわたしの出来ることを大切なファミリーにしてあげたい。
私には帰る家もないし、家族もバラバラになってしまったけれど、
私はここで自分の場所と血のつながらない兄を、姉を、弟を、妹をたくさん得ることが出来たから。
だから私は今とてもしあわせだよ。だってすごいBig Familyだよ。
今日もどこかから、わたしの兄弟がここにやってくる。私はそれがとても嬉しい。

長旅に疲れて、やっと家にたどり着いた、弟、妹にソファーで休むように促し、
ご飯を食べさせたり、お茶やコーヒーを入れることはごく自然なこと。
私はだれもが家族に対し、当然することをやっているだけだ。

君たちが旅を終えて、日本に帰ったとき、
君の父や母はどうやって君を迎えるだろう。
姉や兄、妹たちは久々に帰ってきた君のために何をするだろう。

私はいつもそんな気持ちで、
今日も重い荷物を背負い、不安げな表情で「今日、部屋はありますか?」と
クリフホテルの扉を叩く日本人を待っている(日本食は出してあげられないけどね)。

荷物を降ろし、ソファーに掛けて、熱いネスカフェのカップを手に、
君たちがホッとした表情をするのを見ると、こっちまでホッとする。

「おかえり、ようこそクリフホテルへ」。

そしてクリフホテルで休んで、地図を見て、また元気に旅立っていく、
私の弟、妹たちよ。どうか無事、旅を終えて日本に帰って欲しい。

そして私のことも思い出して。
いつかきっとまたヨルダンにもきて欲しい。

いつでも帰ってきていいよ。ここは君の家でもあるのだから。

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ソース:http://www.sekaitabee.com/samel_history

やっぱり泣ける。

 

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