私を認めて欲しい、皆そう思ってる。

  • 2012年2月10日
  • 2019年11月6日
  • 雑記
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最近インターネットで、

時々世界一周しました、みたいな人のツイート見たりするけど、内容が浅いよね。
ただの旅行は金と暇があれば誰でもできるから。

と言ってる人がいて、

おっしゃる通りです。 てオモタ。

 

たぶん、「世界一周」という行為自体がどうこうってより、「世界一周してきたぜ、すごいやろ」みたいな空気感が、中身を伴ってなくて浅い。という意味なんだろうと、ざっくり推察してみた。

つーかまぁ、そもそも世界一周ってのも、何をもって世界一周なんだ?
って話から始まっちゃうわけなんだけど、特に定義はないわけで。

 

私も旅の最初の頃は、「へぇ~世界一周してるんですね!?」とか言われると、「あ、いや、世界一周・・・っていうのかは分からないですけども・・・」みたいに謙遜半分で戸惑ってたけども、

後半になると、「世界一周してます(キリッ」みたいに言ってた。

 

いや、何ていうか、単純に面倒くさいんです。回りくどく言うのが。あーだこーだと遠回りして細かく説明したって、結局聞いた人の理解が「つまり世界一周」でまとまっちゃうんだから、最初から言ってあげた方が合理的。ただそれだけ。

何となく海外旅行とかあんまし行かないような人から見ると、「世界一周」っていう言葉の響きそのものに、凄さを感じるのだろうけど、結構実際に、世界一周してる人たちって、案外そうは思ってない。結構フラっと行っただけ、みたいな人が多い。

そんでもって冒頭のツイート「ただの旅行は金と暇があれば誰でもできるから。」

ってのはまさにその通りで、誰でもできると思う。

ま、とかいって、本当に誰でもできるわけではないんだけどね。

理由は、痩せたい人全員がダイエットできているわけではないのと同じ。

 

私がこのツイートに目が留まったのは「内容が浅い」と書いてたこと。

いやもちろん、この人の言いたいことは概ね理解しているつもりであって、批判の意図はない。

 

例えば、その”世界一周した”らしき人のツイート内容が浅かったとして、何が悪いのかってことなんだよね。まぁ直接「悪い」とは言ってないけども。

 

例えば浅かったとしてだ。

それでもその人がすごく楽しんでるのなら、それでいいじゃん。て思う。

そして、それを浅いって言いたい人がいるのなら、もちろんそれもそれでいいじゃん。とも思う。

だから、これは私の個人的な考え方の話。

 

私は人生は楽しければ楽しいほどいいと思う。

私の考えは必ずそこに帰結する。

だから理論の整合性とか、最もらしさは、本当どうでもいいと思う。

 

実は私が1年半、色んな国を周って遊んで、その経験の中で、自分にとってすごく興味深い発見をした。

別にそこに気づくために世界一周する必要はないし、何なら日本にいる小学生でも分かってる子はいるんだろう。ただ、私は今回の旅の中で気づいた。

 

人は誰かと話をしていて、何かしらの意見が食い違った時、世間一般的には「○○が常識」、とか「△△が真実」みたいな基準を頼りに、どちらの言っていることが正しいかを判断しているのだと思ってたけど、

長期の旅を続けていく中で、様々な人と話していくうちに、それは違うと思うようになった。

 

人が誰かに話しをするという行為はまず、

私の意見を聞いて欲しい、とか賛同して欲しいとか、

すなわち私を認めて欲しいという欲求が下敷きになってる。

ってことに気づいた。

 

何でかっていうと、そりゃあ世界各国、バックグラウンドの違う人と話してれば、(例外なく日本人も)意見が食い違ったりもするんだけど、話を突き詰めていった時に、仮に相手の意見がどう見ても間違ってると思えたとしても、そうやって会話が決着したりはしないんだよね。むしろ終われなくなる。

第三者がそこにいて、この件はどう見てもAさんが正しいね、って言ったとしてもだ。

 

別にディベート大会をやってるわけじゃなんだから、どっちが正しいとか、どっちの勝ちとか、ほとんどの人は、本質的には
そういうものを求めて会話をしてるわけじゃない。

 

そりゃ政治家や評論家が議論するのとは意味合いが全然違う。

一般人のそれは、あくまでも会話であって、その延長として議論っぽいものが混じっちゃったってだけ。だから案外、本心で議論したがってる人は少ない。

 

じゃあ結局何かっていったら、「私を認めて欲しい」ってこと。

その人が言ってることが、その時点においては、その人にとっての真実。

 

科学の世界なら、最新の情報こそが真実。だけど絶対ではない。

みたいな認識あるけど、それに似た部分はあるかなーって思う。

 

例えば、今でこそ有識者が偉そうに言ってる論理だって、50年後には、「何であんな意見がまかり通ってたんだ?」とか言われるかもしれないわけ。

 

私は日本に帰ってきてから、この「私を認めて欲しい」っていう欲求に、「承認欲求」という名称があることを知った。

知ってる人は、たぶんずっと若い頃から知ってるのかもしれない。

 

承認欲求ってのは、それこそもう日常の中にいくらでもあるわけで、それこそTwitterとかは、その最たるもの。承認欲求のためのツールみたいなもの。

まぁFacebookとかもそうだけど、「ランチなう」とかいかにも独り言っぽくつぶやいてはいるものの、

要約すると、

「私は今こんなランチを食べています。どう?おいしそうでしょ?ね?ね?」

みたいな意味を含んでることが多い。

 

つまり、本気でリプライとかは一切求めてないような、「これは単なる私のライフログです。お構いなく。」みたいな人はいないわけで、たいていの人は「お、うまそう!」みたいな反応をこっそり期待してるわけです。

そういうことを旅の中で気づいて、私の中で大きく変わったことは、例えば誰かが何かを話してる時に、自分の認識と圧倒的にずれてることを話してたとしても、それを素直に聞き入れることができるようになったこと。

 

うわー、この人ワケわかんねーこと言ってんなー。
まぁでもここは空気読んで反論しない方が利口だなー。

みたいな、戦略的な対応じゃなくて、もっと純粋に、

なるほど、この人はこういう風に考えるんだなー。

って思えるようになった。

自分の中の硬さがすっぽり取れた気がした。

 

それぞれにそれぞれの意見があっていいと思う。

それがどんだけ間違ってて、どんだけダサくて、どんだけ無意味だとしても、

それはやっぱり、どうやら現時点では正しい”っぽい”人からの視点でしかないんだから。
人それぞれ楽しいと思うことをやってるだけ。

 

みんな
好きなことをもっと言って、
好きなことをもっとやって、
好きな人にもっと恋
すればいい。

細かいことはどーでもいいと思うよ。

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