という件について話してみようと思う。
こんなブログ記事を読んでいて思い出したこと。
例えば、ある会社で実際にこんな実験をした。
会社で新卒に目標を与える。一方には
・テレアポ、週2件のアポ目標
・ 専門書の読書、週1冊必ず読んで、レポートを提出する。
という2つの目標。
もちろん、先輩が新卒一人ひとりについて、丁寧に指導しながら目標を達成させるようにする。
他方で、
・テレアポを頑張る
・専門書を読むように意識する。読んだらレポートを書く。
という目標を設定する。こちらも同じ先輩が指導する。さて、1ヶ月後、どちらのほうが結果が出ただろうか?
もちろん、結果を出したのは前者だ。後者のテレアポの件数や読書の件数に比べ、前者は圧倒的に数字で勝っていた。数値目標は目標に向かわせるドライブ力がある。明確な目的意識を抱かせるからだ。
しかし、面白いことが起きた。前者の新人は1週間、テレアポと、読書以外の仕事をほとんど憶えていなかった。一方で、後者の新人は、テレアポや読書以外の業務、例えば「先輩の手伝い」や「会議で話されたこと」について、よく憶えていた。
人間は面白いもので「明確な目標値」が与えられてしまうと、それ以外のことをあまり考えなくなる。
その時点での最優先事項の「どうしたら2件取れるか」 「どうしたら早く読めて、レポートを効率良く書けるか」に注意を引き付けられてしまう。
いかに完璧に見える方法論であろうとも、プラスとマイナスはあると思う。
当たり前の話だが、時間もエネルギーも有限なので、すべてをプラスにすることはできない。だから選択して集中させる。要するに優先度を考えることになる。
上記の例でいえば、目標の数値を掲げることで、意識や行動が明確化して結果が出やすくなるということだが、当然ながら集中して割いた時間やエネルギーは、本来使われる予定だった他の事柄には使えなくなり、結果として「他の仕事のことを憶えていない」といった事態が発生する。これがプラスとマイナスだ。
何かを重視して何かを軽視する。
何かをやるこということは、何かをやらないということだ。
もっと根幹的な話をすれば、
人間の能力にはゲームのパラメーターのような、いやもっと無数の項目それぞれに能力の値が割り振られていると仮定した場合、
生まれながらに得意な項目もあれば不得意な項目もあって、そのうちどの能力がさらに伸びていくかは、その人次第ということになるが、
何かを頑張ったから数値が伸び、頑張らなかったから数値が伸びない
―わけない、と私は思っている。
ある二十歳の大学生が勉強を頑張り、サッカーも頑張り、恋もして、充実した人生を送っていたとしよう。
一方でもう一人の二十歳の青年は、学校に通っているわけでもなく、仕事をしているわけでもなく、家に引きこもってゲーム三昧、ネット三昧の日々だったとしよう。
この場合、イケてる大学生は、ざっくりいうと勉強+5、サッカー+5、恋愛+5、そして勝手な予想でファッション+3ぐらいが得られると思う。
これに対して、引きこもりニート君は、勉強+0、サッカー+0、恋愛+0、そしてファッション+0である。
しかし、逆に引きこもりニート君がやっていることにフォーカスすれば、ゲーム+10、ネット知識+10である。そればっかりやってるから数値もでかい。
もしゲームもネットもやっていなかったとしても、何もしていない=休んでいるとみれば、睡眠+20とか、何もしていないように見えて、すごいどーでもいいことを一日中考えてたりすれば、思考+20とか、そういう場合もあるだろう。
ただし、ゲーム+10が現実世界でどう役立つか、どうお金に換金していくかはまた別の話で、自分が生きている時代にフィットする能力がどれなのかを厳選し、ほとんどの人はそこに集中して時間とエネルギーを使っている。それがつまり効率化というもの。
しかし、その効率化でせいで失われているものや、伸びない能力のことについてはほとんど考えられていないのが実情だと思う。
なぜなら、能力の項目数も数値も、誰も知ることができないのだから。
しかしマイナスを意識しているかどうかで、行く末はずいぶん違うような気がする。
「リンゴはダイエットにいいらしいよ?」っていうのもそう。
そう言われるのだから、たぶんダイエットにはいいはずだ。
しかしそのせいで、本来得られたはずの他の栄養素が摂取できないマイナスもあるだろう。最初からそれを理解していれば、リンゴダイエットは必ず成功するだろうし、もしくは最初からリンゴダイエットをしないという選択もある。
「あー、今日はすごくラーメン食べたい!」
美味しさプライスレス。
美味しさの代わりに失ったものプライスレス。
私たちは常に何かを失っている。