人は人生を変えられない

  • 2013年10月22日
  • 2021年6月13日
  • 人生
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人は人生を変えられない。

私が人生の中でできることは、気まぐれな「やる気」に、いつも悩み、ときどき感謝し、そして、ただ楽しむだけ。

 

これは、私が世界一周旅行に出る何年か前に、ふと考え始めたことです。

そして私は、この私なりの考えをもって、旅に出ました。

実はこの旅の目的のひとつは、この考えを世界に当てはめてみて、確認をすることでもありました。

そして私はこの旅の中で確信に近い手応えを感じたので、記事としてシェアしたいと思います。

 

人は人生を変えられる?

「誰だってその気になれば人生を変えられる。」

そんな売り文句をかかげた自己啓発本が、世の中にはたくさんとあります。

だから、人は人生を変えられるんでしょう。

それは否定しません。

 

だけど、別の意味でいえば、人生は変えられない。

私はそう思っています。

今からそれをなるべく分かりやすく説明していきます。

 

そもそも「人生を変える」ってどういうこと?

たとえば、まっすぐ一直線に伸びる、人生の道筋みたいなものが予め示されていて、それを自分の力で曲げてみせるってことでしょうか?

人は未来を予想できないのに?

この先まっすぐ続くかどうかも分からない道に対して、「曲げる」とか「変える」というのは今ひとつ納得感がありません。

では、「自分で人生を選択した」「自分で道を選んだ」、そういう表現ではどうでしょうか。

人生というのは、ある意味、分岐路の連続。

常に選択肢をせまられる道の歩みだと思います。

 

たとえば

大学に進学するか、就職するか。
このままバンドを続けるか、やめるか。
この女性と結婚するか、しないか。

何だって人生の選択です。

 

もっと日常的な例でいえば、

「今日の昼ごはん、どうしよう?」
「今日はカレーかな、ラーメンかな、どっちにしようかな。」

そう考え、そしてカレーを選んだとします。

しかし本当にあなたはこの時、自分の力だけでカレーを選択したのでしょうか。

 

何かを選択する時、今この瞬間の自分だけで選択することはできない。

私はそう考えています。

 

「人生はその人が望むように変えられる」

「人間やれば何だってできる」

すなわち、人にもし無限の可能性があるとするならば、その瞬間その瞬間、人には無限の選択肢があるはずです。

 

しかし「昼ごはんを何食べようかな」と考えた時に、残念ながら無限の選択肢が出てくることはありません。

なぜなら人(脳)が無意識に選択肢をフィルタリングしているからです。

寿司だってある、メキシコ料理だってある、マクドナルドだってあるんです。

だけど、それが候補に挙がらないのはなぜでしょうか。

「そりゃあ、気分でしょ?」と言われれば、正にその通り。

 

その瞬間のあなたが判断を下す以前に、あなたを取り巻く環境や状況があなたを制限しているのです。

その正体が気分なのだとしたら、気分はそもそも選ぶことができません。(少なくともその瞬間は)

その日の体調が悪ければ、油っこいものは食べたくないとか。その日暑ければ、冷たいものが食べたいとか。

食べたいものがあっても、お金が無いから無理だとか。食べたいものがあっても、店が遠いから面倒くさいとか。

そんな項目が本当は山ほどあって、それが毎日繰り返す思考の中で、効率化されていく。

それが積み重なっていくと、今度はほとんど無意識の中で省かれていくようになる。

結果として残ったものが、今回はカレーとラーメン。

たったの、2つです。

3つだっていい、5つだっていい、それでも無限の選択肢とはいえません。

 

では、たった2つの選択肢を前に、人は人生をどう変えるというのでしょうか。

「運命的にはカレーだったんだけど、今日の俺はあえてのラーメン!」

そういうことでしょうか?

「つーか、それ、もともと運命的にラーメンだったんじゃねーの?」

そう言われてしまったら、否定ができません。

 

人は原体験を選べない

この、たった2つの選択肢があぶり出されていく背景には、あなたのこれまでの人生経験、家庭環境、人間関係、それらの全てが関係しています。

例えば、小さいころに食べたラーメンがめちゃくちゃ旨かった。

逆に、野菜が苦手でいつも給食を残してた。

そんな原体験を元に、この無意識に行われているフィルタリング(膨大な選択肢の削除)が実行されているとしたら、無限の選択肢を手に入れるためには、その原体験を自分で選ぶ必要があります。

 

でもそんなの無理ですよね。

まず生んでくれた親。 ここ、絶対に選べない。

そして、育った環境。

生まれた国
親の教育方針
通った学校
出会った友達

どれも自分の力で選んだなんて、言えるものじゃない。

 

偶然(必然でもいいですが)生んでくれた親の下で、しつけられ、怒られ、褒められ、

偶然生まれた国で、言葉を覚え、その国の常識に順応し、

偶然出会った友達と、言葉を交わし、分かち合い、助け合い、

結果としてあなたの性格や好き嫌いが形成される。

それがあなたに何かを選択させ、

それを繰り返し、

年月が経ち、

今のあなたが、カレーとラーメンの選択を迫られている。

 

そして、このカレーとラーメンの二択ですら、それ以前につくられた性格や好き嫌いによって、あなたに決めさせようとしているのかもしれません。

こうなるともう、選んでいるというよりも、選ばされているに等しい。

人はその瞬間にはただ、「YES」か「NO」か、もしくは「右」か「左」かを、言葉なり思考なりで発するだけの役目なのかもしれない。

さぁ選ぶぞ!

その瞬間になって、これまでの経験や、自分の性格、その他一切のものを断ち切って、完全にフリーの思考で判断するなんて、土台無理な話。

だけどそれができない限り、無限の選択肢と、そこから生まれる無限の可能性は絶対に手に入らない。

あるのはいつも有限の可能性。

 

やる気は操作できない

たとえば勉強が苦手な人に、何で勉強しないの?って聞いたとしたら、

「そんなもん、できるなら最初から勉強しているよ」って言われます。

なぜならその瞬間、その人にはその選択肢が与えられていないからです。

努力できる人というのは、努力できるだけの準備、つまりそうできるだけの過去の体験と、現在の環境、そしてそこから湧いてくるやる気(動機)が揃っている人。

 

まるで天から降ってきたかのように、小さい頃から努力できる人もいれば、どれだけ歳とっても、努力なんてできないように感じる人もいる。

努力なんて、その人のやる気次第だよって言われればその通りなんだけど、じゃあ、そのやる気はどうやって操作するの?って話になるわけで。

それ、やる気操作できたら全員スーパーマンじゃん。って話になるわけで。

でも実際、全員スーパーマンにはなってないよね?

何で?

 

やる気と行動は比例しない

もっと細かく言えば、例えやる気があっても成し遂げられるかどうかは別問題。

雑な例で申し訳ないけど、たとえば「やる気30%のA君」と「やる気80%のB君」がいて、2人ともアイドルになりたかったとするでしょ。

A君は誰もがうらやむようなルックスと魅力的な性格、対照的にB君はいたって普通だったとする。

いやもちろん人は表面的な見た目や性格が全てじゃないですよ。

だけども、そういう分かりやすさが重要視されるような世界では、いくらB君のやる気が高くたって難しい。

無理じゃないけど難しいのは間違いない。

やる気というのは高い方がいい。だけど人と同じようなやる気を持っていても、その人と同じ結果が出るわけじゃない。

それは、人それぞれが持つ、行動に対してのハードルの高さが違うからです。

A君がアイドルになるためには、たぶんちょっと頑張っただけでなれるかもしれない。むしろ頑張らなくても向こうからスカウトが来たりする。そして実際にアイドルをやっていく中でやる気が生まれて、波に乗れることもある。

だけどB君の場合は、どれだけ頑張ってもチャンスが一向に見えてこない感覚になる。そのうちにやる気を削られて諦めてしまうこともある。

 

人生の中で「やる気はあるんだけどなぁ」ってことないですか?

頑張ってるけど、成功できない、なんてのはまだいいですが、「やってみたいけど行動には至らない」みたいなこと。

それって、自分が持つハードルを超すほどのやる気ではないってことではないでしょうか。

言い換えれば、そのやる気を凌駕してしまうほど、あなたが高いハードルを持ってしまっているのでは?

ハードルってのは、言ったら、「足かせ」って意味でもいいです。

あなたの足を引っ張る何かが、実は存在しているということです。

 

行動に移せない理由が必ずある

たとえば、あなたはインターネットが好き。

家でゆっくりして、ネットでも見て、風呂でも入って、寝る。

そんな安定していて約束された、守られた環境が実は好き。自分が思っている以上に。というか楽。

もし自分がやりたいと思っている、ちょっとリスキーな行動と、その安定した生活を天秤にかけて、どっちがいいかを考えた時、今の生活をかなぐり捨ててまで、冒険したいと思ってない。

例えば、人のやる気レベルMAXが「死んでも構わない」と思うことだとすれば、あなたは「死んでもいいから成し遂げたい」なんて思えますか?

「死んでもいい」レベルのやる気を持ってるなら、明らかにその安定した生活は捨てているはずです。

だとしたら、行動に移せていないという結果は「それを捨てられるほどのやる気ではない」という裏返し。

やる気5 – ハードル2 = なら、+3なので、つまりあなたは行動できる。
やる気7 – ハードル9 = なら、-2で、行動できない。

こんな感じで、やる気の高さと行動は必ずしも比例しない。

ハードルを超えるほどのやる気を持っていれば、既に相応の結果(行動)が出てるはず。

そういうことなんだと、私は考えているんです。

 

そしてそのやる気を、人は選べない。

いや、もっと適切な言葉でいえば、「動機」を人は選べない。

物事は動機が全て。何かをしたいと思えば、それはできる。

 

だけど、そういう感情は、どこからかフッと湧いてくるもので、

うぉぉぉぉーーーー!!!

とかいって、元気玉みたいに意図して集められるもんじゃないんです。

だから人は、その気まぐれな動機に人生を委ねるしかない。

いや、俺の人生は自分で決める!みたいな、やる気に満ち溢れた人というのは、「やってやる!」って動機を既に授かった人。

その逆に、動機が全然湧いてこない人だっている。自分が何をやりたいのか分からない、そんな人で溢れてますよね。

そこから言えることは、何でもやればできるといった理想論は(同じ瞬間においては)全ての人に通用しないってこと。

何でもやればできる。それ自体は事実。

だけど、それは「やれば」の話。

もし人間の寿命に限りがければ、たぶん、全ての人に1回以上は「やってやる!」って瞬間が来る。

だけど、実際にはそうじゃない。人生にはタイムリミットがある。

だから生きている間に、もし「やってやる!」と感じる瞬間が来たならば、あなたはラッキーなんです。

 

環境がその人を決めている

有名なアリの実験の話を知っていますか?

ある学者だか教授だかが、アリの実験をした。

アリの巣に、例えば100匹の働きアリが居て、それを観察する。

見ていると、めちゃくちゃ働き者のアリが大体20%ぐらいいる。逆にあまり働かないアリが80%ぐらいいる。

だから、働き者のアリの上位20%だけを巣から取り出して、別の巣で生活させて、また観察する。

そうすると、めちゃくちゃ働き者だったはずのアリの中で、なぜか、働く奴と働かない奴が必ず出てくる。

さっきまで働き者だった20%のアリの中で、働き者が大体20%、残り80%があまり働かなくなる。

何度やっても、同じ巣の中の全員が働き者になるってことは起こりえない。

実験の結果はそんな感じ。いわゆるパレートの法則や、ばらつきの法則というもの。

 

これってつまり、A君が働き者なのは、A君がA君だからなんじゃない、A君が「この環境で」働いているから、ってことに他ならない。

だって、周りの人がもしほぼ全部の仕事をやりきっちゃったら、わざわざ自分が働く必要なんてないから、そりゃあサボる。

逆に周りの人が全く仕事してくれなくて、会社が全然回らない状態だったら望んでなくてもやるしかない。サボる暇なんてない。

その人が望むか望まないかに関わらず、その時代や環境によって、自分の行動が強いられている。

 

人は自分なりに走っているだけ

仕事をサボっている人
いつまで経っても努力しない人
頑張るって言ってるだけで行動しない人

どんな人だって、

その人はその人なりの環境の中で、何かに仕向けられ、悩み苦しみ、それでもその人なりに考えて、生きている。

刃物持って暴れた人
911のテロリスト犯
北朝鮮の指導者
そしてアウシュビッツ強制収容所を作ったナチス。

こういう人たちは「頭がおかしい人」と片付けられるかもしれないけど、本当にそうなの?

だったら、頭おかしい人って、自分の意思で、頭がおかしくなりたくて、なった人なの?

私はそうは思わない。

どんなに狂った考えや行動に見えたって、その人は、与えられた環境と状況と動機の中で、何かに強いられて生きるしかなかった。

その中で、自分が選び、選ばされ続けた分岐路の先に、そういう結果があっただけなんだと。

だって、その人にとって心地よくて、平和で、安定した環境がもしあったなら、そんな行動なんて取る必要もない。

行動があるってことは、その前に動機がある。動機があるってことは、その裏に必ず理由になるような伏線がある。

そして、それはまるでアリの実験と同じように、A君がA君であるかは、関係なかったりする。

 

私がもし、生まれた瞬間から、毎日爆弾がいつ落ちてくるか分からないような時代や世界に居たら、

世界一周するだとか、自分の夢をかなえるだとか、いや~やっぱ人生ってのはさぁ~とか、そんな戯言は言えない。

そんな考えは、死ぬまで一瞬たりとも浮かんでこないかもしれない。

毎日が生死の境。

親が死に、兄弟が殺され、それで、絶対に報復してやるって心に誓った時、

そこに日本の旅人がやってきて「それは良くないことだから、やめなさい。」って言ったとする。

そんなことは理解できるはずもない。たぶん私の中でこの報復が悪になりえないから。

 

だけど、そんな人生は、自分が好きで選んだんじゃない。

気がついた時から、人は先の見えないレールに乗ってて、よく分からないけど、自分なりに走ってきただけなんだ。

だからその先にある誰かの結果が、いわゆる「悪」だったとしても、私はその人を責められないし、責めたくもない。

私は長い期間旅行を続けてきて、行ったことのない土地に足を踏み入れ、言葉を交わし、色んな人の生活と、価値観と、人生のちょっとを見せてもらった。

その中で見えたのは、人それぞれ与えられた人生の中で、その人はその人なりの強いられた行動の中で、進んだり、曲がったりしているだけ。

やっぱり自分の力だけで人生を選んだり、何かを特別、ねじ曲げたりしているようには見えなかった。

日本を含めた”経済的に”豊かな先進国ですらそうだった。

 

それがその人にとってベスト

結局は、どんな形や結果であっても、いつだってそれがその人にとって、その瞬間のベストで、MAXなんだと思う。

だから私はそれを否定したくないし、むしろ称えたい。

人生はそもそも真っ直ぐじゃない。何もしてなくたって、横にそれたりするものだと思う。

人は、十人十色と言われるように、人それぞれ違う性格や人生を持っている。

それゆえ、あなたと同じように見える人であっても、あなたと同じような結果を出せないもの。

世の中には、救済の対象になるような、経済的に貧しい人や、身体的にハンデのある人がいるけれど、もっと身近に、精神的な寂しさを持った人が沢山いる。

他人のものさしで「分かってない」とか、「努力が足りない」とか、強者の理論をゴリ押しされて、気持ちを理解してもらえない人たちが。

他人を否定するのは簡単だけど、自分を理解しようとしてくれる人ほど大切な人はいないと思う。

だから、自分も誰かに対してそういう人になりたいと思う。

別に傷を舐め合うとか、甘やかすとか、そういうつもりはないのだけど、例え誰かにそう思われたって、私はただ、誰かの気持ちを理解したい。

だからそれでいいと思っている。

実のところ、私がこのブログで最もやりたかったことは、いい写真をUPすることでも、下ネタを書くことでもなく、

この記事を書くことだったのかもしれない。

 

私が「人は人生を変えられない」と言っているのは、

・人生を諦めろ
・人生に希望を持て

そのどちらでもない。

 

人生には可能性がある。

だけど、それはあなたに希望を持たせるものでも、かといって絶望させるものでもない。

可能性は、ただ漠然と転がっているだけ。

それを人が叶えられるかどうかの確率というよりも、世の中における偶然が発生する確率に近い。

あなたがもし、

「俺は自分の人生を、自分自身で選んで生きている。」

そう思える人ならば、あなたはすごくラッキーだと思う。

あなたはやる気に満ち溢れている。

他人がどうやっても手に入れられない「やる気」を、あなたは授かった。

その幸運は、何のためらいもなく、存分に享受すべきだと思う。

じゃなきゃ、あまりにも勿体ない。

人生にはタイムリミットがあるのだから。

 

\いま人生の変わり目にいるあなたへ/

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